多義図形の3次元化

 福田繁雄の作品「潮風公園島の日曜日の午後」(1995)が今は水の広場公園にあると記したが、この作品は正面から見るのと横から見るのとでは、全く別の形に見えてしまうトリックアート。正面からはジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1884-1886)の一部が見え、横からはピアノの演奏シーンが見える。福田の作品を見て最初に気づくのは、二つの視点(正面と真横)以外はまとまった姿に結実せず、中途半端な位置にいる鑑賞者を失望させてしまうのではないかということ。2次元の多義図形の3次元版がこの作品の意図なのだろうだが、本当に3次元の多義図形になっているのかと問われると心許ない。3次元の多義図形がどのようなものかの明確なイメージを私たちはもっていないように思われる。

 「ルビンの壺」は代表的な反転多義(両義)図形で、多義的であることより反転が起こることの理由がもっぱら探求されてきた。一方、「ペンローズの三角形」は不可能図形(impossible object)で、その作図可能性が議論されてきた。いずれの図形も紙に描かれているのが普通だが、2次元ではなく3次元で表現できるかどうか、それを追求したのが福田だった。福田作品は2次元の錯視図形を3次元化したものが多い。ペンローズの三角形や悪魔のフォークは2次元で「だまし絵」として描くことができるが、3次元には存在しないので、impossible objectと通称されてきた。画家のエッシャーはそのような不可能な対象を数多く描いている。

 こんな面倒な話はやめて、直截にこのimpossible object(不可能立体、不可能図形)を私たちの住む3次元の世界でどうすればつくり出せるか調べてみよう。その後で、この子供じみた好奇心が何を意味するか考えてみよう。まず、次のような課題について答えを見つけよう。

(1)ペンローズの三角形はなぜimpossible objectなのか

(2)3次元のルビンの壺は可能か

(3)アヒルとウサギが多義(両義)的なのは3次元の世界でも可能か

(4)ペンローズの三角形は3次元の世界にあるのか

(1)「ペンローズの三角形」という表現は正確ではない。それは3本の角材でつくられた三角形のシルエットをもつ立体のことである。三角形の枠の上に線を引いていく。各辺の枠上を通る線3本は結ばれる筈だが、そうはならない。遠近法を信じるならば、上下、左右、表裏が三角形の立体について成り立っているが、それがバラバラになってしまっている。つまり、この三角形の立体は3次元の対象としては存在できないのである。3次元では存在できないが、2次元の紙の上にはスケッチできるのがペンローズの三角形である。

(2)3次元のルビンの壺は可能で、例えばMathematicaを使って作図可能である。私の顔のシルエットを左右逆にして並べれば、壺が浮かび上がる。だから、壺も両脇の人の顔もいずれかを3次元の対象にすることができる。そして、2次元の図として見ると、壺あるいは人の顔が交代しながら両義的に見えるのである。

(3)(2)と実は同じ理由で、3次元でも可能。だが、特定の角度から見たときだけ曖昧な図形になり、真上から、あるいは真横から見たのではアヒルもウサギも見えない。

(4)ペンローズの三角形は私たちの3次元ユークリッド空間には存在しない。ペンローズの三角形も悪魔のフォークもこの世界に実在できない。だが、ペンローズの三角形や悪魔のフォークに見える対象をある視点から見ることができる場合がある。これは他の多義図形についても同じである。アヒルとウサギの場合も、それが3次元の対象であるなら、2次元の画面に描かれた角度から見ると、ウサギとアヒルに見えるのである。3次元のルビンの壺も然りである。

 線で描かれた三角形はペンローズの三角形にはなれない、つまり、線三角形はimpossible objectではなく、possible objectなのである。ペンローズの三角形も悪魔のフォークも眼に見えているが、上述のごとく不可能なものである。その不可能なものが見えている、矛盾するものが(2次元の紙に描かれた像として)見えている。にもかかわらず、不可能なものは存在しないし、矛盾するものも存在しない。実在するが見えないのは不思議でないが、見えるのに実在しないのはとても不思議に思われる。「見えるのに実在しない」ことを実際に具体的につくり出すことができるだろうか。それが可能であることを示す証拠が幾つもある。作図画面、パースのモニュメント、サイコロや立体での構成、その他にも曲がった梁を使った立体等々、人の好奇心は尽きないのだが、いずれもある視点から見るとペンローズの三角形に見えるというもので、それ自体が実在する訳ではない。

 また、アヒルとウサギの両義図形はアヒルにもウサギにも見えるが、実際は同時に両方であることは不可能。だから、アヒルとウサギとであることはないが、ある視点から見ると、ある時ウサギに見え、別の時アヒルに見えるのである。

 ペンローズの三角形も悪魔のフォークも存在するのは表象としてである。いずれも見えるのだが、存在はしない。「見える」ことと「在る」ことの具体的な違いがこの例を通じて見えてくる。ペンローズの三角形も悪魔のフォークも実際に見えている。そして、いずれも実在していない。

 見えにくいので、よく見えるようにする、2次元で見えるものを3次元でも見えるようにする、これらは美術の役割の一つである。福田はエッシャーの絵画を3次元化することによって、存在と外観がどのように違うかを具体的に表現しようとした。大袈裟に言えば、「仮象と物自体の違い」という言葉遊びのような表現を美術的に真面目に具体化した例でもある。むろん、「見える」ことと「在る」ことの違いだけでなく、存在と外観が視点によって結び付けられ、存在のある側面、存在のある性質が外観に対応していることが具体例を通じて見えてくる。

<画像解説>

1バウハウスの宣伝ではないが、これだけでペンローズの三角形が3次元の世界でどのような意味で可能かがよくわかる。

2オーストラリアの東パースの彫刻で、ある角度から見るとペンローズの三角形に見える。

Wikipedia, Impossible object)

3福田繁雄「消えた柱」(1985)も、ある角度から見ると悪魔のフォーク型の不可能立体が見える。

4アヒルとウサギ

広告を非表示にする