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短編小説 4

 短編小説 4

  五芒星

                北山悦史

 ――胸が騒ぐ。

 掻きむしりたいほど、疼く。

 胃の中で泉が泡立っているような。

 いや、沸騰すら、しているような。

 今まで感じたことがない、明確すぎる感覚。

 ということは……。

(もしかして……)

 ついに、運命の出会いが?

         ◇◇◇

 気持ちよく晴れた、日曜の午後。

 滝本芳絵は、外出着というほどではないが、みっともなくは思われない服装で、庭に出ていた。

 庭は、花でいっぱい。

 いつか、出会い、迎える日が来ると信じて、その時のために、花を切らしたことがない。

 信じて――。

 根拠は何ひとつ、ない。だが、自分にその時が来ることが、生きている意味。人生そのもの。

 だから、?信じて?いるのだ。

         ◇◇◇

 一戸建てを購入したのは、四年前、四十歳の秋だった。

 女一人で買うことができるまで、働きづめに働いた。

 身を粉にしてお金を貯めること、それしか、頭にはなかった。

 長いこと。

 ずっとずっと、長いこと。

         ◇◇◇

 高校二年の二月、思いを寄せていた数学教師・山上和樹と、肌を合わせた。

 一度きり。

 その一回で、身ごもった。

 誰にも打ち明けられず、ずるずると、時を過ごした。

 二十八歳の山上は、妻子持ち。家庭を壊すつもりなど、ハナからなかった。

(何とかしなくちゃ)

 気は焦るものの、心の幼さゆえか、何の実行も伴わなかった。

 妊娠に気づいたのは、母だった。

 夏休みに入って間もない七月下旬。薄着になった芳絵の体を見て、のことだった。

 相手の男の名は、言わなかった。それは、自らに固く誓ったことだった。

 医者に、連れて行かれた。

 五か月は過ぎていた。中絶は、危険だと。

 産むことになった。

 高校は、中退した。

 山上からは、何の連絡も、なかった。

         ◇◇◇

 出産したのは、年も押し詰まった頃。

 生まれた男の子を、

 直後に、

 一度だけ、

 抱かせてもらった。

 右耳の後ろに、星の形をしたアザが、あった。

 赤ん坊は、もらわれていった。

 一切の関わりを持たない、という約束を交わしていた。

         ◇◇◇

 翌年、体調が戻ってから、通信教育で高校卒業の資格を取った。

 家を出て働きながら、やはり通信教育で、大卒も得た。

 就職したのは、外食チェーンの営業。

 男と肩を並べ、勝つことはあっても負けることはなく、働いた。

 恋も何も、しなかった。

 あの子に、

 いつか、

 会える。

 それのみを、生きる糧としていた。

         ◇◇◇

 家を買ってから、心の事情が変わった。

 それまで、

(あの子に会える)

 というのは、希望、願望だった。

 それが、?実体?とでもいうものを、持ちはじめたのだ。

 日を追うごとに、強まった。

 そして今や、確信にまでなった。

(近々、会える)

 と、胸騒ぎに似たときめきに、身悶えすらする。

 頭がおかしくなったのかと、ときに、思わなくもない。

 しかし、そんな思いは、

(絶対、会える)

 という?事実?に、あっさり打ち消されてしまう。

         ◇◇◇

 何かが、

 来た!

 芳絵は、門の外に目をやった。

 二十半ばと思しき男が、やってくる。

(あの子!)

 顔の造作もよくわからないのに、?わかって?しまった。

 外に出た。

 男が、芳絵を見て、

「あのー、すみませんけど」

「……は……い……」

 声は、詰まっている。

 胸は、張り裂けそうだ。

「突然で、申し訳ないんですけど、あのー、ちょっと、トイレ、貸してもらえないでしょうか」

「い……いいですよ。どうぞ……どうぞ」

 くらくらしながら、玄関に案内してゆく。

 右耳の、

 後ろを、

 見た。

         ◇◇◇

 彼がトイレから出てくるまでが、永遠の長さに感じられた。

 今まで生きてきた、億倍、億倍、億倍の。

 彼が出てきて、

「どうもありがとうございました」

 丁寧に頭を下げる息子に、

「いえいえ。どういたしまして」

 が、満足に、言えない。

 ぼろぼろと、

 涙が、

 こぼれている。

 息子が、

(は?)

 という顔をしている。

 誰かに、似ている。

(あの人! 山上先生!)

 いっそう、

涙が流れた。

         ◇◇◇

 引き留めたかった。

 どうしても。

 二度と再び、会えなくなるのではないか。死ぬまで。

 いや、きっとそうなる。

 が、トイレを借りただけの客を、無理に引き留めることはできない。

 どうすればよいか。

「あ、そうですそうです。失礼しました」

 息子は笑顔でそう言うと、財布から名刺を取り出し、渡してよこした。

「これはどうも、恐縮です……」

 受け取りながら、気が遠くなった。

 野村魁人。

 立派な名前を、付けてもらったのだ。

 会社名などは、

 涙に曇って、

 読めない。

 が、この名刺さえあれば。

 やっぱり、会えたではないか!

         ◇◇◇

 自分の名刺も、無理っぽく思えはしたが、渡した。

 そうして、門まで送って出た。

 魁人を先に立たせて。

 耳の後ろの、

 五芒星を、

 感謝と感激とともに、

 目に収めて。

(二十六になったのね)

(二十六年間、生きてきたのね)

(お父さんとお母さんに、可愛がられてきたんでしょうね)

 と、胸を詰まらせて。

 たった一度だけ抱かせてもらった、

 我が子のあの感触を、

 この手と、

 この胸に、

 甦らせながら。

「じゃ、これで。本当にありがとうございました」

 頭を下げた魁人の向こうから、初老の男が歩いてきた。

 その男がすぐ前に来て、

 芳絵と目が合い、

(あ……)

 という顔。

 芳絵は、意識を失った。

 誰かが、

 体を抱き支えてくれている。

 その感覚は、

 ある。

 はるかに遠い、

 高校時代とともに――。

                  [了]