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短編小説 1

 短編小説 1

  人身

                北山悦史

                    

 駅のホームは、電車を待つ客であふれている。

 電光掲示板には、人身事故で上下線とも大幅に遅延している旨の案内が、くり返し流されている。

「ご迷惑をおかけしまして、まことに申し訳ございません」

 中年男性と思われる駅員のアナウンスも、くり返されている。

(このまま待つか。構内に戻るか)

 細川光彦は左に首を巡らして、また、電光板を見上げた。

 と、左端下部の視野に、何か光るもの。

 目、のような――。

         ◇◇◇

 高校二年の夏、土曜放課後のことだった。

 光彦は時間つぶしに、体育館に行った。

 一緒に帰る友達を、待っていた。

 最近付き合いだした彼女と、ちょっと話があるから、待っていてくれ、とその友達が言って、いそいそと去っていったのだ。

 彼女と話があるなら、彼女と一緒に帰ればいいのにと、光彦は思ったのだったが、友達には友達の事情があったのだろう。

 体育館は、がらんどうだった。

 明けて月曜から、期末テスト。それで、部活は休みなのだ。

 用具置き場のドアが、開いていた。

 光彦は入ってゆき、バスケットのボールを手に、戻った。

 スポーツは、とにかく苦手。あらゆる種目が、嫌い。

 授業のバスケでも、シュートなど、したためしがない。パスだって、ろくにしたことがない。そもそも光彦に、ボールが渡ってこないのだったが。

(こんなの、入るわけ、ないよなー)

 ゴールの下で、シュート。

 もちろん失敗。

 五回、六回と、失敗ばかり。

 七回目。

 入った!

 生まれて初めて!

 凱旋するようにネットから落ちてきたボールを受け取って、シュート。

 入った!

 生まれて初めて!

(もしかして、オレって、天才?)

 凱旋ボールを意気揚々と受け取ったとき、左目の端に、光を感じた。

         ◇◇◇

 名前も知らないし、しゃべったこともないが、一年の女子だった。

 彼女は、面映ゆげに近づいてきた。

「上手なんですね」

「ううん。そんなことない。たまたま。偶然」

 光彦は強く、かぶりを振った。

「でも、二回、連続して入ったじゃないですか」

「グーゼン。初めてなんだ」

「ほんとですかあ? でも、羨ましいです。わたしなんか、百回やって、百回、ダメです。だいたい、ボールがゴールに届かないんですから」

「ゴールにぶつけるつもりでシュートしたら、届くんじゃないかな」

 いっぱしの口ぶりで、光彦は言っていた。

 この子以外の誰にも、言えたセリフではなかったが。

 彼女は五回、シュートを試みた。

 結局、一回も、ボールはゴールに届かなかった。

 砲丸投げのようなやり方なのがまずいのだろうと、光彦は思ったが、コーチすることができる身分でもなかった。

         ◇◇◇

 彼女・谷村香菜恵と、光彦は付き合うようになった。

 そのきっかけを作ってくれた形の友達は、恋人と一緒に下校するようになり、光彦は光彦で、香菜恵と行動を共にするようになった。

         ◇◇◇

 本に出ていた昔風の言い方をすれば、?プラトニックラブ?だった。

 ずっと。

 光彦が高校を卒業しても付き合いは続いていたが、プラトニックのままだった。

 たぶん、?時?を逸したのだ。体の接触の。指と指の触れ合いひとつ、なかった。皆無だった。

 香菜恵が高校を出てからも、二人が社会人になってからも、同じ付き合い方が続いていた。

 双方が、意識し過ぎていたのだろうか。「なんで今になって?」のような気持ちがなかったと言えば、嘘になりそうだ。

 香菜恵の手が、目の前に、ある。手を伸ばして指先でも握れば、自分たちの新しい世界が始まる。

 だが、その一歩が、踏み出せなかった。香菜恵からも、なかった。

 いつしか疎遠になってゆき、そして途絶えた――。

         ◇◇◇

 光彦は、電光板からその光るものに、目を移した。

 中年女性が、こちらを見ている。

 刹那、

(香菜恵!)

 一方、間違いではないと知ったか、香菜恵の顔が輝いた。

         ◇◇◇

 一緒にホームから構内に戻り、喫茶店に入った。

「何十年ぶりだろ。今、ボク、これ」

 光彦は、名刺を渡した。自慢するようなものは何もない、商事会社の経理課長。

「何十年ぶりかしら。二十年? もうちょっと?」

 うやむやのまま別れたのが、光彦、二十六、七の頃だったか。

 現在、四十八。香菜恵は一つ下だ。

「まあ、そんなものだね」

 青春とその延長のほろ苦さを意識しながら、答えた。

「ご家族は?」

 定番ともいえる問いに、光彦は右手の人差し指を立てた。

「一人」

「そ」

「お母さまは?」

「一昨年。七十二で」

「そうだったのね」

 香菜恵は軽く、顔を伏せた。

         ◇◇◇

 光彦が幼稚園年長組の時に父が病死し、それ以来、母一人子一人の暮らしだった。

 香菜恵と結婚すれば、家に香菜恵が入ってくることになる。母を一人にすることは、考えられない。

 そんな意識が、自分の中にずっとあったのかも、と気づいたのは、香菜恵と別れて、だいぶ経ってからのことだ。

 遠い将来のそんな危惧が、行動のストッパーとなっていたのだったか。

 指ひとつ握れない、ことの。

 そうしてそれが後を引いた結果か、香菜恵の他に恋人が出来なかった、ことの。

         ◇◇◇

 谷村から藤代に苗字が変わった香菜恵は、顔を明るくし、

「でも、一人って、ある意味、ある面、気楽じゃない?」

「う〜ん。どうだろ。気楽じゃない状況とか、考えたこと、ないしなあ」

 幼稚園の時から、母と二人。父のいない淋しさはともかく、不便・不満というような思いを、持ったことがない。

 何かしらあれば、香菜恵とのことが、ああではなかったのだろうか。

「羨ましいわ」

 香菜恵はコーヒーカップに目を落とし、そして上げて、

「うちは大所帯で」

「何人?」

「六人。まあ、六人ぐらいなら、あちこちあるだろうけど」

 夫と夫の両親、大学生の息子と、高校生の娘、だという。

「男三、女三。バランスのとれた家族構成じゃない」

「お風呂もトイレも、大変なのよ。それに食事、洗濯……」

 香菜恵は目をつぶり、気を失ってのけぞるような格好をした。

「なるほどねー。ボクには想像もできない、かな」

 遠くに、付き合いのない父方の親戚が、二軒あるだけ。いとこが二人いるが、小学校の頃に会ったきり。

 光彦の知らない昔からの無理が祟ったのでもあったか、母は六十七の時に病に倒れて、介護生活を強いられ、最終的には、肺炎で他界した。

 葬儀は、密葬も密葬、光彦一人で執り行った。すべて終わってから、親戚に知らせた。

         ◇◇◇

 店の外が、何やら騒がしい。人の流れが急に増したような。

「運転、再開したのかな?」

「かも、ね」

 香菜恵は首を伸ばして外を窺い、戻すなり、大げさに肩を上下させて、ため息をついた。

 義母の用事で出てきたのだが、早く帰って、主婦をしなければならない。ただ、電車が動かないとは、メールで知らせてある。

「でも……」

 香菜恵は光彦を直視し、その目を輝かせた。

「このまま五十になり、六十になりって思ってたけど、よかった〜」

 今度は、見るからに嬉しそうな深呼吸。

「うん?」

 光彦も、何十年ぶりかという、ウキウキした気分。

 メールのやり取りをすることは、もう決めてある。電話も、オッケー。光彦の家には、光彦一人しかいない。電車で、一時間ちょっとの距離。

「ああ、そうそう」

 香菜恵が、おかしそうな顔つきをし、

「娘がね、高校でバスケをしてるの」

「へ〜、選手」

「そ。レギュラー。息子もね、中学・高校と、バスケをしてたのよ」

「へ〜。それはそれは……」

 と言って、ふと光彦は、心に引っかかりを感じた。

 夫の、血。

 きっと、スポーツマンなのだろう。

 仮に、自分たちが一緒になっていれば、スポーツ音痴の家族だったか。

「明るくて、活発で、賑やかそうで、いいねー」

 本心ではない。別に、羨ましくもない。香菜恵が、独り身の自分のことを、羨ましがっている。

         ◇◇◇

 人の流れの二粒となって、ホームへの階段を下りてゆく。

 一歩一歩に、スーツの腕と薄地のジャケットの腕が、触れたり離れたりする。

 柔らかい、ぬくぬくとした体温が、感じられる。

 落ち着いた温もり、と言ってもよいか。妻であり、母であり、義父母と同居している人間が有するもの、であるだろう。

 光彦の乗る上りのホームは、大した人ではない。運転を再開した電車が、行ったところなのだ。

 下りの電車が入ってくる旨、アナウンスが流れた。

「じゃ、また。メール、するわね」

 香菜恵が、スーツの腕に触れてきた。

「ああ、ボクもするから」

 その手に、触った。

 握る、というほどのものでは、なかった。

 が、握った。

 香菜恵が。

 光彦の手を。

 そして、

「今日、会えてよかった」

 ぎゅうっと、強く。

 光彦も、応えた。

「偶然に、感謝、だね」

 しかし、人身事故だったのだ。

 客が群れ待つ下りホームに、電車が滑り込んできた。

                  [了]